フヅクエ(fuzkue)

フヅクエ(fuzkue)

音楽を聞かないなんてカッコ悪いから音楽を好きじゃなきゃいけない。
そういう呪縛から解き放たれ、音楽はそれほど好きでも、嫌いでもないものになった。
肌身離さずヘッドホンを持ち歩き、中古レコード屋に行っては盤を掘り漁るのが好きだったのに。最後に買ったレコードはなんだったろう。もう音源を新しく買い求めることもなく、Spotifyさえあれば十分という体たらく。

逆に関心を持つようになったのは静寂だ。

ただし、静寂というのは自分にとって無音ということでもないようだ。そもそも完全に無音の状態を作るのは難しい。なぜなら無音とは空気の振動をゼロにすること。無音室などに入ることでそれを実現できたとしても今度は耳の奥の内耳神経が体内の音をキャッチしてしまい、そこに無音を見出すことはできないだろう。

ジョン・ケージの「4分33秒」という曲がある。演奏の際には楽器を使い、きちんと奏者も出てくるのだが、音をまったく鳴らさず、例えばピアノの場合は奏者は椅子に掛けてただひたすらに楽譜を見つめ、しかるべき時間が経過すると一礼をして立ち去る。つまり、観客は音の鳴らないその場を「聴く」という趣向のもので、聞こえてくるのは人の息遣いや咳払い、屋外であれば木々や草のさわめき。煩いと感じるかどうかは人によるだろう。それでも観客が協力して「静かにしよう」と努力しているさまはなによりも「静寂」に感じられる。

風もなく雪の降り積もる夜。ほとんどの音は雪によって吸収され、その小さな結晶のぶつかり合う時に立てるガラス質の微かなさわめきだけに支配される。屋内はといえばストーブで薪が時々ぱちんと爆ぜる程度。そんな環境で奥行きの深いソファに腰掛け、ゆったりと本を読めたなら最高だ。

都内で静寂はもはや非日常と言えるほどに貴重なもの。スマホの電源を切り、集中できる環境を整えてもマンションの薄い窓ガラスは光のほかに騒音までもを一緒に素通ししてしまう。もちろん二重窓などを使えば軽減されるだろうが、残念ながらそういった物件は少ない。

せわしないこの街で本を読むとしたら。
居心地のよい、本の世界に没入できる環境はどこにあるのだろうか。自宅よりもさらに良い環境となるとなかなか難しい。

幸いなことに新宿の隣、初台の商店街にフヅクエというカフェがある。
会話を慎まれたしということを筆頭に様々なルールと思しきものがここにはあり——いや、本来はルールですらなく、目的は単純明快で「ほかの人も読書の時間を快適に過ごせるよう配慮をお願いします」ということ。これを守り、皆が心地よい場所になるよう気を配ることで店内に会話はないものの、張り詰めた緊張感ではなく一種の連帯感が生まれている。ふと顔をあげて右を見ても左を見てもやはり静かに、穏やかに読書しており、じゃあ自分もと読書を続ける。子供の頃にふと夜中に目を覚まし、隣で寝ている親の寝顔を見て安心し、また眠りに落ちていく感覚と似ているだろうか。

静かなカフェとはいえBGMはかけられている。不思議なことに、ノイズキャンセラーのように作用してBGMのない状態よりも静かに感じて全く耳障りにはならない。選曲はリズミカルというよりはアンビエントやポストクラシカルのゆったりとしたもの。ドリップを頼めるコーヒーは二種類、浅煎りと深煎り。そのどちらか、いや両方ともだったか——、は嬉しいことに三軒茶屋のオブスキュラの豆だ。個人的に都内で一番美味しく焙煎していると思っているロースターで、特にタンザニアはコクと甘みのある、香り高い豆で気に入っている。

フヅクエは長時間の滞在を前提としているのでカフェにしては珍しく席料がかかる。しかし、コーヒーを飲み、くつろぎながら本を読み、腹が空いたら甘味を頬張り、気づいたらもうこんな時間かということになっても不思議と会計は高くならない。というのも席料は注文ごとに割り引かれ、面白いことにいつも似たり寄ったりな金額へと収束してしまうのだ。読書体験をより良いレベルに引き上げたいカフェと客がフェアな関係性を保つために必要な金額のラインなのだろう。

この気ぜわな東京で時を忘れて文字を浴び、想像の世界に浸かれる場所はそう多くはない。読書を好きな人々に是非とも薦めたい場所である。神保町でレアな本を探し、カレーを食べたらフヅクエへというのも良い。幸いなことに初台へは都営新宿線に乗ると一直線。もし、カレーを食べそびれたならフヅクエでもありつける。